在宅、施設、それぞれに良いところ、難しいところがあると思います。
最初からどちらが良いと決めつけず、その時その時、最善と思う選択をすれば良いのではないでしょうか。
このコーナーでは会員による在宅、施設、それぞれの体験談を載せています。迷っている方の参考になればと思います。
幾つもの器......ちゃあちゃん(母)のこと
60代女性、実母を20年在宅介護の後、施設入所
母が老人保健施設に入所してから、あっという間に1年2ヶ月が過ぎた。今はあんなに大変だった母との生活が何だか懐かしく感じる。もう少し家で見られたんじゃないかな? 今私がやっていることを少し自粛すれば、もっともっと時間をかけてあげられたのかも?・・・違う違う!そんな風に我慢して介護を続けたら、きっとストレスため込んでもっと早くギブアップしていただろう、これで良かったんだ。自問自答しながら自分自身を納得させる毎日が続いた。
20年という長い介護生活から解放され、施設を利用するようになり、改めて在宅介護の大変さを感じている。そしてそれは働く職員のみなさんへの感謝と重なっている。
入所して3,4ヶ月たった頃だろうか。いつものように母に会いに行った私に、看護師さんが「ここ十日ほど下痢が続いています。食欲もあるし、大丈夫と思いますが一応お知らせしますね」と伝えてくれた。私は、家でも下痢が長く続いたことが何回かあったことを伝え帰宅した。後日、職員さんも様子を話してくれた。家で下痢が続いた時は、とても心配だったし大変だった。朝母を起こしに行き、昨日と変わらぬ母の顔にまずほっとする。同時に便はどうかな?漏れてないかな?と考える。毎回パジャマからシーツにまで便が漏れる日が続いた時は、泣きたくなって朝からどっと疲れたまま一日を過ごしていた。あの時は長い長い1ヶ月だった。
それに比べて、今回はなんと心が軽くいられるのだろう、不思議なほど不安がなかった。汚れた下着やパジャマを洗う手間もない。職員さん達のいつもと変わらぬ日常を目にすると、母だけでなく私も守って貰っているのだと思えた。母の下痢はしばらくして治った。
こんなこともあった。7,8ヶ月程前、昼食時に面会に行った時の事である。母の前に置かれたお盆には幾つもの器に美味しそうなおかずがのっていた。(ちゃあちゃん、良かったね。)思わず携帯で写真を撮って、妹に送信した。家では、私がどれだけ楽に介護できるかが一番だった。忙しい私は母の事など考えず、私が楽をするためだけに、ワンプレートにまとめて出していたのだ。
母はみんなより食べ方が遅い。お箸もスプーンも、家に居た頃より更におぼつかない不思議な使い方だ。時々手づかみになったりするし、こぼしたりもしている。私は(面白いなあ、かわいいなあ、あの母がこうなっちゃうんだ)とほほ笑ましく感じた。家で介護を続けていたら、こんなにゆっくりと穏やかな気持ちで見守ることは、絶対に無理だっただろう、施設を利用して良かったなとつくづく思った。私も私を取り戻したような気がした。
在宅は在宅でしか味わえない「良かったな」がある。施設入所は、施設を利用してわかる「良かったな」が必ずあると思う。家で出来る介護と施設で出来る介護は違うのだ。どちらも有りで、私たち介護者が自分を認めたり、感謝の気持ちを感じて「良かったな」と、思えることが大切な気がする。
私は相変わらず週に2回、洗濯物の交換がてら母に会いに通っている。母の居室の引き戸を開ける時は、体調を崩してベッドに寝ていたらどうしようと、少しドキドキする。ベッドは空っぽだ。ああ良かった! ほっとしながらも、そのうちにベッドに寝ている母に会いに行くようになり、そしていつの日か母に会いに通う生活も終わるんだなあ・・わかっていてもその日を思うと寂しいなあ。
私は急いで洗濯物をタンスにしまい、母の居るリビングへ行く。テレビの前のソファが母の指定席だ。最近は自作のメロディで、かいかいと訳のわからない声を出している。「ちゃあちゃん」と声をかける。少し不思議そうな顔をして、時には歌いながら「あなただあれ?」と母が言う。「誰だっけ?」と私。「みっこちゃん?」と母。「当たり~!そうよ、みっこちゃんよ」ああ良かった、今日も言えた。
今の私は100%本当の笑顔で母に接している。施設のすべての皆さんのお陰だ。家で介護をしていた最後の頃は、一生懸命笑顔で接していた。今思うと、9割は母を不穏にさせないための、必死の笑顔だったかもしれない。それでも笑顔は大切だと思う。
「どこに住んでるの?」「藤枝の駅の方よ」
「家族は居るの?」「いるわよ」
「結婚してるの?」「してるよ」
「そう、だんなさんは優しい?」「優しいよ」
「そう、それならいいわね」母が笑う。私も笑う。
ほとんどのことがわからないのに、この会話だけは成立する。不思議だ。
幾つになっても、認知症になっても母は母なのだ。
回想......病気の夫と過ごした日々
70代女性、認知症の夫を在宅で看取る
長寿時代と言われる昨今、逝くにはまだまだ早過ぎました。本人も頑張って病気と闘っていました。私達家族も、もっともっと長生きしてほしいと願っていました。しかし、願いもむなしく、自宅で私ども家族の見守る中、安らかに永遠の眠りにつきました。享年74歳でした。
思えば、新年を迎えた頃から、眠ってばかりいるなど、発病数年後とはいえ、最近の生活パターンとはかけ離れたものを強く感じ、案じ始めた矢先のことでした。
ついこの前まで、主人から言葉を発することはなくても、ディサービスへは笑顔で通っておりました。それが何故急変、どうして?・・・。
進行性の病気と告知されて以来、覚悟はしていたものの、それにしても残念でなりません。しかし現実は現実、そうは言っていられません。
そこで、お世話になった皆様へのご報告の意味からも、発病から今日に至るまでの経緯や、そのことにまつわる心境などを思いつくままに書き綴らせて頂くことにしました。つたない文章で、はなはだ恐縮ですが、ご一読下されば幸いです。
◆【発病〜経過】
平成16年の秋でした。どうみても(行動が)おかしいと、同居の息子達から促され、病院で(頭の)精密検査を受けました。当時は、その場での受け応えなどはまだまだしっかりしていたものですから、検査時における質問内容によっては、「これが犬だ、猫だ、一体何の検査だ、人を馬鹿にして!」など、幼子のような扱いを受けたと腹を立て、病院の廊下を大声で怒り散らしながら歩いた時の私は、主人の後を身をすくめ、うつむきかげんに歩いたものです。
◆【検査結果】
“アルツハイマー型認知症” と、(夫の目の前で)告げられ、回復の望みはなく、進行を遅らせることは出来ても(余命)10年位と言われ、大変悩んだことが、今となってはつい昨日のことのように思い出されます・・・。
◆【異常行動】
平成19年4月頃から根気がない、やる気がない、字を書くことすらままならず、ディサービス(通所)へお世話になることになりました。
またその頃から、自分の敷布団をハサミでズタズタ切る。ズボンを土の中に埋める。作業場の機械を折り曲げ故障させる。エアコンを壊す。私のバッグを切る、隠す。家族のスリッパ、サンダル、靴を川に捨てるなどなど・・・。ケアマネージャーさんからは、「ご主人は仕事をしている積りでいるのでは?」と聞かされました。病気とはいえ、そのような行動に家族一同、言いようのない憤りと不安を隠せませんでした。
◆【病気の進行】
月日の経過とともに、誤飲誤食も始まりました。台所のゴミ、犬のエサ、正露丸、アロエ軟膏などを食べ、化粧水やハイターまで飲んでしまい、その上、ティッシュや雑巾なども口に入れる始末、全く目が離せない状況も続きました。また入れ歯も取ったりはめたり出来なくなるなど、歯ナシの生活は最後まで続きました。さらに徘徊もあり、夜通しウロウロしておりました。しかし、外まで出ることや、世間でよく耳にする暴力行動等がなかった点では随分救われました。
◆【私自身】
不安からか、時々フッと、もの思いに耽ることがありました。主人がこんな病気にならなかったら、今頃、私はどんな生活を送っていたのだろうかと・・・。しかし、ある時、人にはそれぞれ運命があり、自分はこのような道を歩む事が決まっていたんだ、あれこれ考えても仕方がないので現実を素直に受け入れ、やるべき事をやって前向きかつプラス思考で生きて行こうと、気持ちを切りかえて毎日を送る決意をしました。
◆【忘れられない思い出】
歩行も比較的にまだしっかりしていた頃でした。今なら、今しか行けないのでは?と、以前二人で出掛けた神戸の布引香草園(ハーブ園)へもう一度連れて行ってあげたいと思い、ある日の午後、新幹線で神戸へ出かけたことがありました。(主人はお花が好きでしたから)。オムツと着替えだけ持っての日帰りです。その時息子に「どこへ行くんだ!?」と聞かれ、「浜松へ」と答え(本当のことは言えませんでしたので)、新神戸へ行き、駅のすぐ近くにケーブルカーがあり、それに乗って山頂へ、下に広がる神戸の美しい町を見下ろしながら、もう二度と二人で来ることはないんだろうと思ったら、涙が溢れ、折角の景色が滲んで見れなくなったこと。淋しく悲しい思い出のひとコマとなりました。
◆【最期も主人らしい、が救い】
本当に色々なことがありました。徘徊も頻繁でしたが、体力が次第になくなり、座っていることが多くなった頃には、皮肉にも介護がかえって楽になったこともその一つです。
主人との二人三脚での人生も残念ながらこれで終わりになりました。
改めて振り返りますと、主人は “花”の鑑賞と “旅行” を、好むところが、私との意気投合の所以かと思います。長い間には何度か喧嘩をしたこともありました。しかし主人の本来の性格はおとなしく、もの静かな中にも家族思いの人でしたので、喧嘩の後も、不思議と憎らしさなどの感情が湧きでたことはありませんでした。
介護生活でもそうでした。発病後の年月は長くても、懸念していた異常行動の期間が比較的に短かったこと。かつ、この病、特有の暴言・暴力、不潔行為などに至らなかったことが、主人の尊厳を最期まで失うことのなかった事実には、主人の性分や生き方に相通じるものが、と感謝の気持ちで一杯です。
やはり夫婦は、たまには喧嘩して刺激し合い、共に元気に毎日を送れることが理想です。もう少し月日が経てばアルツハイマー病を治す薬も出来たでしょうに・・・。
そして何年か先、私も主人の後を歩いて行くことになりますが、私の残りの人生、ささやかな幸せを見つけて、優しく時を重ねて行きたいと思っております。
ところでこの “回想” を、公開することが、身内の恥をさらすことになるのでは? との意見も出ましたが、今の私の気持ちとしましては、高齢社会において増え続けるアルツハイマー病も、他の病気と異なることなく、偏見ない普通の病気の一つとして、一人でも多くの方に御理解いただける機会になることを信じ、敢えて身内の体験を包み隠さず、このような形で公開させて頂きました。もしお近くに同じような境遇の方がいらっしゃった場合、ご理解の一助となれば幸いに存じます。
4粒のイチゴ......命の炎が消える時まで
60代女性、義母が施設入所
母も3月に「看とり」の状態になりました。1月末 からインフルエンザ予防のため、施設が面会謝絶 となり、1ヶ月半逢うことができませんでした。
3月 13日に母が「看とり」になったと連絡が入り面会がようやく許されました。長く会えなかったのでずいぶん気落ちしたんだろうと思いました。久しぶりに会っても眠いと言って、ほとんど話しをしませんでした。それからは再々会いに行き、だんだん元気になってきました。
お茶もお水もほとんど取らない状態なので、水分補給に果物をと「カットフルーツ」のみ許されたので持って行くと「おいしい」と喜んで食べてくれました。又、さつまいもが好きだったので、スーパー で「焼き芋」を買い持って行くと、私の手から奪うように自分の手で口に運んでいきました。
職員さんから「いつものみわさんじゃないみたい ね」と言われ、いつもの食事は1割から2割程度しか食べない、しかし時々調子が良いと9割くらい食べる時があると聞かされました。食事をする状態を見たいので、夕飯まで付き合い様子をみると、やはりほとんど食べてくれませんでした。
好きなものだったら自分でほおばって食べるのに、施設の食事は気持ちの進む時だけしか食べられないんだと実感しました。
もう普通に食事が入っていかないんだとわかり今、食べられる時に好きな物を充分食べさせてやりたいと思いました。次の面会で「カットフルーツ」ではなくパックのイチゴを家で洗い、容器に入れて持って行き、ダメだと言われるのは分かっていたけど来年は食べる事ができないと思うと、反対を押し切っても、今回だけだからと無理矢理 OKさせ食べさせました。粒の大きいイチゴを半分にして4粒ほど、おいしい、おいしいと時間をかけ食べ、満足した顔を見る事が出来て私も満足した気分になりました。
施設の中で規則は守るのが当然だとわかっていても、入所以来一度も好きな果物を口にすることなく、とても可哀想な気がして、せめてもう一度だけ食べさせてあげたいと母に対する気持ちが強く、押し通してしまいました。
実の母より長かった40年一つ屋根の下で暮らした思いが、私を強くしたんだと思います。来月元号が変わって5月23日がきて99 歳になります。だからもう少し頑張って、そして出来ればもう1年100歳まで頑張れと思う気持ちと、一方いつまでなの? いい加減私を自由にしてほしいと願う自分がいて、どっちが本当の自分なのかしら! と思う時も あります。
母の命の炎は神様しかわかりませんが、その命の炎が消える時まで、せめて優しい自分で接してあげたいと思います。直接ではないけれどまだまだ介護は続いているんですよね。
手紙......父と私、穏やかな別れの時
50代女性、実父を看取っていただいた施設への感謝の手紙より
あの日、こんこんと眠る父の側で姉と私、子供の頃の想い出話をしている中、父は静かに、静かに息を引き取りました。
その瞬間を姉も私もとても穏やかな気持ちで迎えることができました。これもスタッフの皆様に見守られていたからだと思います。
父を最後まであたたかくお世話して下さり、本当に有難うございました。
ターミナルに入ってからの数日、私は庭の紫陽花の花を持って毎日父に会いに行きました。そしてスタッフの皆様がどれだけ父に心を尽くして下さっているかを目の当たりに感じることができました。
まだ父が家にいた頃、私は介護に疲弊し、わざと意地悪を言ったり、冷たい態度を取ったりしていました。今になって後悔に押し潰されそうになるのですが、皆様が父に親しく、優しく接して下さっている姿を見ているうちに私の後悔が洗い流されていくような、癒されていくような、そんな感覚になりました。
父は生前「自分にはここが合っている、職員さんは皆愛想が良い」と言っていましたが、本当に楽しかったのだと思います。そのことに私は救われます。
ターミナルのケアプランを今読み返して、父が寂しくないようにと大好きだった洋画『哀愁』のテーマ曲を部屋に流して下さったこと、好物のみかんのジュースを、指に巻いたガーゼで口に含ませて下さったこと、それもできなくなってからはオレンジのアロマオイルを枕元に香らせてくれたこと、ひとつひとつがどれだけ父を大切にして頂けたか、胸が詰まる思いです。
みかんジュースはお手本を示して頂いて、私も口に含ませてやることができました。この体験で一層私の心が癒されていきました。
亡くなる数日前までは、「父はこの部屋で一人で息を引き取るのかな、スタッフさんも私も24時間見ているわけにはいかないし、、」と心配があったのですが、父の部屋でボーッとしていた時、リビングのほうから明るい話し声が聞こえてきて、それがとても心地良く、「あぁ、この部屋で一人で息を引き取っても、それは一人じゃないんだ」と安心しました。
そしてなかなか思い切りがつかず言ってあげられなかった言葉を言うことができました。丁度最後の日となりましたが、父の耳元で「もう頑張らなくていいよ」と。
あの日は姉とふたり、施設の帽子をお借りして、お昼を買いにコンビニへ出掛けました。夏の日差しに山々の緑が映えて、懐かしい場所を姉妹で旅しているような不思議な感覚になりました。とても鮮やかな風景として一生忘れないのではないかと思います。
父はよく「たった二人の姉妹なんだから仲良くしなさい」と言っていました。姉は遠方に住んでいるので疎遠になっていましたが、父がまた姉妹の縁を結んでくれたように思います。
そしてその日の夕方、父の一生が終わりました。
臨終の時、先生が「お父さんは人の世話になりたくない、という人だったから、最期の5日間は自分の意思で食事をしなかったのだろう」とおっしゃって下さり、私の知らなかった父の人間性を感じることができました。
とても嬉しかったです。
最後のお別れには大勢のスタッフの皆様に送って頂きました。その光景に姉も私も驚いて、胸がいっぱいになりました。
同じ施設にいる母も車椅子で玄関まで連れて来て頂けて、最後のお別れをすることができました。
皆様には言い尽くせないほどの感謝をしております。
父と私達家族を幸せにして下さって、本当に有難うございます。